かみ合わない日常(永遠に暫定)

やってくるこの毎日が、人生だと知っていたら!

天使の微笑み

ボクが彼女を見かけたのは、厭な仕事に向かう列車の中だった。空席の目立つ車両の中で
まるでわざわざ選ぶように彼女はボクの真向いに座った。
 大した美人じゃなかったし、着ている物も地味なものだったが、それでも俺は彼女に釘
付けになった。
 彼女は――、微笑んでいた。
 それは、ついぞボクが目にしたことがないような微笑みだった。何かいい事があって笑っ
ているという風じゃない。まるで、生まれた時から笑むことを知っている――そんな天使
みたいな微笑みだった。
「4月は、桜咲く季節ね」
 彼女の独り言だったのか、ボクに向けて発せられたものだったのか今も分からない。窓の
外の薄桃色の桜並木を愛しむように眺めながら、たった一言彼女はそう呟いた。終点のひ
とつ手前で俺が降りた時も、相変わらず彼女は黙って外を眺めていた。

まばたきをするように、風の姿を描く花びらは、夢と埃の隙間をひらひらと舞う。
こんなにも美しい季節に、どうしてボクはこれほどに絶望した気分に浸っているのか。
目前に、自動改札が僕の行く手を阻んでいる。
ポケットを弄ると、桜の花びらが一枚。
何故だか、ボクは、今ならすべてを許せる気持ちになっていた。
踵を返すと、ボクは元来たホームへと向かっていた。
終点まで、あと一駅。今まで見たことのない光景が、そこにある気がして。

電車に揺られながら、ボクは妄想していた。
彼女の発したあの言葉を、脳内で何度も反芻しながら。
「天使、なのかい?」
終点目前の信号で、電車は止まる。しかし、10分が経とうというのに動く気配はない。
ボクは飽くことなく、桜並木を眺めていた。苛立ちを隠さない周りの奴等に、微笑すら浮かべて。

「この先、人身事故発生のため発車までもう少々お待ちください」
うんざりするほどの時間から開放されて、終点の扉が開く。
皆一様に、疲れきった背中を向ける、その肩越しに。
少し淋しそうに…、天使が微笑んでいた。

(と)