かみ合わない日常(永遠に暫定)

やってくるこの毎日が、人生だと知っていたら!

檸檬

えたいの知れない不吉な塊が、私の心を始終圧えつけていた。
焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか
いけないのはその不吉な塊だ。
前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。
何かが私を居堪らずさせるのだ。

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。
結局私はそれを一つだけ買うことにした。
それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。
始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。
それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。
憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。
なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。

変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。
丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、
もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
私はこの想像を熱心に追求した。
「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」

(と)