かみ合わない日常(永遠に暫定)

やってくるこの毎日が、人生だと知っていたら!

プチ妄想「あと1週間」

しかしなぜ斯様に休日がつまらないのであろうか。考えるに自分は「予定のある休日は野暮」となぜか思いこんでいる節があり、いつも行き当たりばったりの休みを過ごしている。

休みの日は、ドーナツのリング。
対比としての労働が存在しなければ、ドーナツのリングは成立しない。
意味の無い休日であったとしても、無職であるならばその罪悪感は倍増する。
「俺は平日、身を粉にして痩せる思いで(痩せないけど)働いているんだ。休日の意義以前に、対比としての休日が存在している事に感謝しなければ」
そう自分に言い聞かせ、何となく正当化してしまう。

そう言えば、昔とりさんがこんな事を云ってたな。

必然空間からの開放としての自由が定義できるならば、そこには積極的意思が介在する。ショーペンハウアーは、「利害から分裂した真の自由は、意欲や衝動から発生するものである」と定義した。
意欲や衝動なき状態で生きている間は(ちょうど今日みたいな感じ)盲目的意思に飲み込まれてしまい自由とは言えないんだろう。

考えれば考えるほど、思考は海の底をさまよっていく。
昼。2時半過ぎに起きると、冷蔵庫から麦茶を取り出しては下品に飲む日曜日。
テーブルの上に出したままの、昨日の残りのスーパーの惣菜を抓みながら、宝塚記念を惚けた表情で眺める。

その流れで、その後やっていた少しだけ痩せた渡辺徹のドラマも見てしまう。
こんなフレーズが、頭の中をこだまする。
「大事な事は、昔描いていた夢が実現できたかどうかではなく、夢に向かって打ち込んでいた気持ちが今に生かされているか」

夏の夕方、薄暮時。
あと1週間でルサンチマンエントロピーがまたしても増大する記念日がやってくる。
涼しげにさわさわと降る雨の中、ボクは思い切って涙のカギを開けた。

(と)