かみ合わない日常(永遠に暫定)

やってくるこの毎日が、人生だと知っていたら!

労働と社会性

やっと、今月2日目の休みです・・・
朝、会社に行って、あまりに憔悴しきったボクを見るなり
「休め」と、栄養ドリンクと風邪薬を差し出されて。
…その代わり、明日仕事なんですけどね。ああ。

非労働者において、社会性が低下していくのは自明の理ですが。
全く休日の無い状態で、極めて限られた人間関係でのみ仕事をしていると
「労働に引きこもる」という、逆位相と同等の現象になるわけで。
約2週間ぶりに、週末の繁華街をふらつくも、他者の存在が酷く恐怖に感じ。
数ヶ月精神病院に幽閉されて、久々の外出の時のような、視線のあわせ場所の無い感覚。
仮に今、リアルな世界で日頃関わり合いの無い人と会話しようとしても、間違いなく成立しない。

社会性が労働にあるとすれば、それはボクにとっては成立しない命題であり。
労働の主体は、労働を通じて、いわば対象のうちに自己を移し入れ、自己外化(Selbstveraeusserung)するところにあるらしいですが。
移し入れる対象が消失した労働に、意味なんてあるのでしょうか。
私が思考すればするほど、私は存在することが少なくなり、反対に、私が存在すればするほど、私は思考することが少なくなる。

私がそのために生き、そして死ぬことを願うようなイデーを見出すこと。
…実存くん、ぐーるぐる。

(と)