かみ合わない日常(永遠に暫定)

やってくるこの毎日が、人生だと知っていたら!

久々に断薬の話。

最近、断薬の話を意図的にしていなかったというわけでもないんですけど。
基本的に、押し付けで断薬論を語ってもなんら共感を得られるものではないと思っていますので。
一応、このサイトのメインフレームでもあるわけですから(そのくせ、コンテンツないけど)たまには書きます。

昔、自助グループのミーティングでこんなコトを言っておりました。
<b>「飲んでた時の方が、全然楽だったよ」</b>
断薬しておよそ1年半、その言葉の意味が良く分かります。

基本的に、誤解があってはならないコト。
<b>断薬したって、別に幸せになれるわけではありません。</b>
むしろ、クスリを止めた今のほうが飲んでたときより苦しいですよ。
苦しいからって、クスリ飲むわけにもいかないわけですから。
故に、断薬が長続きせずに再使用にいたってしまう事例が殆どなわけでして。

クスリを飲んでいた時の報酬系
クスリをキメる→快
きわめてインスタントな、短絡的思考が完成してしまった後に、クスリ以外で快楽を得ることは、ホントに難しい。
ですから、精神科に通院して長くなると昔好きだった趣味がどうでも良くなってしまう、というコトがままあるわけで。

まして、
クスリを止め続ける→快
には、到底なりえないですよ。もし、それが快感であったとしても、クスリをキメた時に得られるそれとは性質が異なるわけですから。
今でも、時々思いますよ。今の禁欲的日々と、精神病院に幽閉されて一生過ごすのと、どっちが幸せなんだろうか、と。

切り株に兎がぶつかって・・・の話を持ち出すまでもなく、ヒトはラクな方法を覚えてしまうと、まっとうに生きるのが面倒になってしまうわけで。
とすれば、断薬を続けていくモチベーションはなんであるかと言うと。
それは、家族云々であるわけは当然無く(こんなコト書くと非難されるでしょうけど)
<b>いかに倫理的に生きるか</b>
ココにあるのではないかと思うわけですよ。
「私たちの行為は、それが義務であるという理由から行われるときにこそ、純粋に道徳的に正しい行為といえる」
とまあ、そんなところでしょうか。

断薬によって幸福が得られるコトが目的ではなく、自分に課した格律を果たす義務として。
…あーあ。こんなコトばっかり書いてるから、
「つまらん日記だ」
と、揶揄されるんでしょうね。あう。

(と)